こんにちは!ねこ太🐈です。
ナイチンゲールは小学生の子どもも知っている世界で最も有名な看護師と言えますよね!
我が家には医療職者は一人もおりませんでしたが、家の本棚にはナイチンゲールの書籍があったのを覚えています。
彼女は「光掲げる貴婦人」、「クリミアの天使」「ランプの貴婦人」‥数々の異名がつけられ、いまでは『近代看護教育の母』と呼ばれています。
一体、ナイチンゲールってどんな人物だったのでしょうか?
わたしも看護学生のときに、ナイチンゲールの看護理論を学ぼうと『看護覚え書』を読みましたが、それ以外の本は全く読んだこともありません‥。
しかし、最近になって、改めてナイチンゲールに関する文献を何冊か手に取り読んでみました。
その中で、わたしが特に面白いと感じたのはナイチンゲールの半生に触れたものでした。
まず始めに、わたしがナイチンゲールのイメージを180度変えた、偉人という言葉に隠れてしまって今までみえなかった、ナイチンゲールの姿の一端が垣間見えるエピソードをご紹介します。
ナイチンゲールが、クリミア戦争におけるスクタリ陸軍野戦病院で働いていたときのことです。
戦争で負傷した人が次々と運び込まれる中、病院内で消毒薬や包帯が足りないという事態に、ナイチンゲールは病院のトップである軍医長官に直談判に行きます。
そこで軍医長官から「在庫はあるが、軍の決まりで委員会の承認なしには使えません。そしてその委員会は3週間後です。あきらめなさい。」と言われてしまいます。
当時のイギリス軍は男性社会の官僚主義が横行していた時代でしたので、常識的に考えれば、それ以上は何も言えずに諦めるしかありません‥。
しかしナイチンゲールは諦めませんでした。
何をしたのか‥。
ナイチンゲールは斧を手に持ち倉庫の鍵を壊したのです。
そして、倉庫の中にある包帯や消毒薬を取り出して使いました。
わたしはこの事実を知ってから、「ナイチンゲールについてもっと知りたい!」と思うようになりました。
そして‥ナイチンゲールが
「どんな人物でどんな人生を送ってきたのか?」
「なぜ看護師を目指したのか?」
「クリミア戦争でどのようなことを感じたのか」‥いろいろな事が調べて分かりました。
今回の記事では、わたしが見知った限りの等身大のナイチンゲールについて、ご紹介していきたいと思います!
ナイチンゲールはどんな人?
まずは、ナイチンゲールの基本情報、偉業などについて、ご紹介していきますね!
名 前 | フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale) |
国 籍 | イギリス |
生年月日 | 1820年5月12日 |
出 生 地 | イタリアのフィレンツェ |
没 年 | 1910年8月13日(享年90歳) |
ナイチンゲールが生まれる前から、宗教系の看護学校は存在していましたが、彼女が世界で初めて非宗教系の看護学校(ナイチンゲール看護学校)を設立しました。
クリミア戦争では負傷兵たちへの献身な看護を行うだけでなく、医療衛生の改善を図り、統計データに基づき、病院環境の改革を成し遂げました。
そのため統計学者としても有名です。
ナイチンゲールは生前150点以上にわたる印刷物を書いていますが、その中でも『看護覚え書』は看護師の座右の書として世界的にも有名なベストセラーにもなっています。
彼女は今や看護の理論家という側面がありますが、実は150点もの印刷物の中には看護理論と題を打ったものは一つとしてありません。
ナイチンゲール看護理論は、ナイチンゲールが書き残したものを読んだ人たちによって『ナイチンゲール看護理論』として集約されたものであり、今や看護における大理論となっています。
まさに看護界の偉人ですね!
ナイチンゲールの歴史を紹介
ねこ太も看護師ですが、看護師が患者さんを理解しようとするとき、入院中の患者さんの様子だけでなく、その人の入院前の生活背景であったり、その人がどうやって生きてきたのかを知ろうとします。
それが分かることで、「だから患者さんはこういった言動をするのか‥」と納得し、「そうしたらこういう関わり方がいいのかな‥」とその人の個別性、その人らしさが分かり、看護に活かせるんですよね。
人を理解するには、その人の歴史すなわち『生い立ち』を知るって、とっても大切な事なんですよね。
では、今からナイチンゲールの人生に迫ってみましょう♪
ナイチンゲールの誕生
ナイチンゲールはいつの時代の人なのか?
実は彼女が生まれたのは、1820年5月12日です。
つまり、今から約200年前に生まれました!
どのような時代だったかというと‥
世界史的には1821年に起こったギリシャのオスマントルコからの独立戦争が有名なのですが‥わたしとしては正直余りピン来ません‥。!(꒪ꇴ꒪〣)
なので、日本ではどんなことがあったのかを調べましたので、紹介しますね♪
1820年というと‥日本は江戸時代の後期、幕末前です。直近の日本での有名な出来事としては、1821年に伊能忠敬が大日本沿海輿地全図という日本の実測地図を作製しました。
また勝海舟が生まれたのが1823年(文政6年)です。
ナイチンゲールが勝海舟とほぼ同年代の人だったんだな‥と思うと何となく感慨深いものを感じますね~ヾ(≧∇≦*)/
またイギリスでは産業革命が18世紀後半に起こりましたが、1825年に蒸気機関車が初めて実用化され、まさに産業革命真っただ中の時代でもありました。
いまの世の中では電車や車はあって当たり前のことですが、ナイチンゲールが生まれた時代はまだ蒸気機関車すら実用化され始めたばかりの頃です。
両親はイギリスのジェントリ(貴族よりも1つ下の階級)という上流階級(イギリス国民のわずか3%)の人です。
父のウィリアムはケンブリッジ大学を卒業して政治活動をしており、母のフランシスは社交好きで美しい人だったと言われています。
またナイチンゲールには姉のパーセノープ(何歳離れていたかは分かり次第追記します)がいます。
ナイチンゲールは、両親が約3年間にわたって新婚旅行をしている最中に、イタリアのフレンツェで誕生しました。
新婚旅行で3年間旅行するなんて、現代の日本人の感覚からは想像できませんが、少なくとも物凄く裕福な家庭であったのは間違いなさそうですね~。
ナイチンゲールが生まれたのはイタリアのフィレンツェですが、裕福な家庭だったためイギリスからは馬車で旅行していたと思われます。
彼女も生前はイギリス国内だけでなく、様々な国を訪問しました。
国内もそうですが、外国へ移動する事自体が時間やお金も相当掛かりますが、労力も相当なものだったでしょう。
そして貧富の差も激しく、貧しい人は日々の生活にも困窮していたので、強盗などの犯罪も多かったと言われています。
長距離移動というのも、身の安全も含めて決して楽ではなかったでしょう。
またフローレンスという名前は、フィレンツェの英語読みがフローレンスであることから名づけられました。
わたしは『フローレンス』は花の名前なのかな‥と漠然と思っていましたが、生まれた地名から名づけられるなんて、ちょっとオシャレに感じてしまいました。
また『5月12日』は何の日かご存じでしょうか?
日本では1990年に旧厚生省(現在の厚生労働省)が『5月12日』を「看護の日」を定めました。
この日は、病院で高校生が1日看護体験をしていたりもしますよね♪
世界的にみると、1965年に国際看護師協会が『5月12日』を「国際看護師の日」と定めており、看護師の社会貢献を称える日と世界中で認知されてます。
ナイチンゲールの幼少期
ナイチンゲールは裕福な家庭でしたので、その当時の一般的な女性が受ける教育の中では、相当高度な教育を受けたようです。(*男女差別が激しかった時代でもあります)
母国語の英語はもちろん、外国語(フランス語・イタリア語・ギリシャ語)、ラテン語、哲学、統計学、数学、天文学、文学、経済学、歴史といった学問から音楽や絵画まで幅広い教育を在宅でしかもそれぞれ専門の家庭教師から姉と一緒に受けていました。
ちなみに統計学をナイチンゲールに教えていた先生はケトレーという人で、「近代統計学の父」と呼ばれ、看護師であれば誰でも知っている、何とあの『BMI』を考案した人でもあるのです!
わたしが調べた所によると、1830年代では、全ての初等教育つまり小学校の半分以上は高額の授業料を徴収していた私営学校だったと言われていることから、学校教育自体も今のように一般市民に浸透してなかったと推測されます。
教育熱心な父のお陰で、ナイチンゲールは学校教育よりもさらに上の在宅でのそれぞれの科目をその道の専門家が家庭教師となって教えていました。
そういったことからも、当時の子どもが受ける教育としては相当珍しかったと言えるでしょう。
しかし、この時の教育がなければ、今日の『近代看護教育の母』と呼ばれるナイチンゲールは、存在しなかったかもしれません。
彼女が裕福な家で生まれ育ったのも、父が教育熱心だったのも、まさに運命だったのかも‥ですね!
ナイチンゲールの青年期
次は、ナイチンゲールの青年期‥つまり看護師になるまでの道のりを紹介していきます!
1842年(22歳)頃に、イギリスで飢饉が起こりました。
*1845年からアイルランドでジャガイモ飢饉も起こり、ヨーロッパ全域に広がりました。
ナイチンゲールは街に溢れる失業者や飢えで苦しむ人々を目の当たりにし、「苦しむ人を助けたい!」という強い思いをもったようです。
そして、それがきっかけとなって看護の道を志すことになります。
しかし、わたしが調べたところによると、当時のヨーロッパ社会では、裕福な人が貧しい人たちに施しをする習慣があり、ナイチンゲールはよく母に連れられて、小さい頃から貧しい人の家を訪れていたようです。
そういった中で、彼女の心の中には、『人を助けたい』という純粋な思いをずっと以前からもっていたのではないかとわたしは思っています。
その数年後である1844年(24歳)に看護の仕事に就こうとしますが、両親‥特に母親の反対を受けて看護師になる道に進むことはできませんでした。
なぜなら、上流階級にいる女性は仕事をせず結婚をして家庭に入ることが当然の道と考えられていたからです。
また、この頃の看護師という職業は社会的に地位のある女性が就く職業とは考えられていませんでした。
現代では想像できないかもしれませんが、看護師は『病人の世話をする単なる召使い』として見られており、専門的な知識は必要のない職業と考えられていました。
家族の反対にあいながらもナイチンゲールは看護師への道を諦めませんでした。
彼女の日記にある言葉(下記)からもその思いの強さ、使命感に近い想いを感じていたと思われます。
「私は30歳、キリストが責務を果たしはじめた年齢。今はもう子供っぽいこと、無駄なことはしない、愛も結婚もいらない。神よ、ただ自分の意思に付き従わせてください」(1850年、日記)
ONLINEジャーニーより引用
また当時イギリスの国会議員をしていたリチャードという富豪から、結婚を申し込まれましたが、それも断り、自身の思いに従って、看護師への道を模索し続けました。
そして、1851年(31歳)に、とうとうイギリスの政治家シドニー・ハーバードからの協力を得て、名目上は当時病気だった姉の看病をする目的で、ドイツの看護学校への入学を果たしました。
ナイチンゲールは、ドイツのカイザースヴェルト(Kaiserswerth)学園‥ある病院の附属看護学校で3か月間にわたって看護師になるための勉強をしました。
カイザースヴェルト学園では、看護を単なる宗教的な信仰心であったり、社会奉仕ではなく、ひとつの職業として『看護』を捉えた教育がなされており、そこにナイチンゲールは強く共感したといわれています。
「看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事です。犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護師といえるのです。」
フローレンス・ナイチンゲール(ナイチンゲール看護研究所より引用)
ナイチンゲールのこの言葉からは、確かに人のために尽くす仕事ではあるが、自分の身を削る想いでするものではないといっているように聞こえます。
これはまさに、カイザースヴェルトで学んだことが大きくナイチンゲールに影響を与えているということができるでしょう。
また看護をすることは、自分にとっても元気が出て、幸せで希望に満ちた思いをもてる仕事であるとも言っています。
今の日本の看護はどうでしょうか?
わたし自身は、正直なところ臨床で働いているときも、その域には達していなかったな‥と思います。
しかし他の人はどうだったかな~というと、わたしが新人の頃に働いていた病院の看護師さんはまさにそうだったな~と思います。
当時働いていた病院では、一緒に働いていたわたしの目から見ても、看護師さんはとにかく一生懸命、本当に献身的に看護をされていました。
夜遅くまで残って日勤帯でできなかった洗髪をしていたり、せん妄があって術直後にも関わらず歩こうとしてしまう患者さんに対して、何とか抑制しない方法はないかと根気よく関わったり‥とにかく熱意と行動力が凄かったな~と思います。
先輩方は「大変だよ!」とは言っていましたが、いつも笑顔で楽しそうに仕事をしていましたので、自己犠牲というよりも、自分自身が楽しんで看護されていたように思います。
もちろん入院されている患者さんからの評判もとても良かったですね。
苦情や投書などはほとんどなく、よく患者さんから「ここに入院して良かった!」「ここの看護は日本一!」と退院される時によく言われていました。
まさに今思うとナイチンゲールの目指した看護があったんだな‥と思います。
ナイチンゲールの成人期(前期)
ドイツで看護を学んだナイチンゲールは、イギリスに戻り、友人の紹介でロンドンの慈善病院に就職しました。
なんと病院勤務は無給でしたが、ナイチンゲールは理解者となってくれた父より支援を受けて働き始めます。
そして、この病院での看護実践を通して、ナイチンゲールは『呼び鈴』と呼ばれる、現代におけるナースコールに相当するものを初めて導入しました。
このシステムを作ったのも実はナイチンゲールだったということを、今回わたしも初めて知りました!
ナースコールは患者さんにはすご~く便利なもので、現代では当たり前‥むしろナースコールがない病院なんて考えられないくらい、必要不可欠なものです。
でも当時は当たり前ではありません‥。
そんな中で、患者さんの立場からきっと考えたのでしょう‥改めて、ナイチンゲールの発想力って凄いな~と思いました。
またナイチンゲールは、病院で働くようになってから1年も経たない内に、師長(婦長)になっています。
どれだけすごかい働きぶりだったのでしょう‥もう想像ができません。
そして、1853年にはクリミア戦争が勃発します。
クリミア戦争とは
ロシアが聖地エルサレムの管理権を得るために、1853年にオスマントルコと戦争を起こしました。それに対してイギリスやフランス、イタリアがオスマントルコと連合して同盟軍(100万人)と作り、ロシア(220万人)と戦っています。ロシア軍の侵攻に対して、イギリス軍などが集結して戦争となった場所がクリミア半島であることから、クリミア戦争といわれるようになりました。3年後にはロシアが敗北して終戦しています。
ロシア軍13万人、同盟軍7万人の死傷者が出たと言われています。
クリミア戦争では、現代のように戦争にタイムズ紙の新聞記者も同行しており、毎日のようにイギリス国民に対して戦争の状況が報道されていました。
この戦争での記者の同行が現代の従軍記者の先駆けと言われています。
英国陸軍の野戦病院の悲惨な状況を知った英国の国防相のシドニー・ハーバートは、ロンドンの病院で活躍していたナイチンゲールに白羽の矢を立てました。
彼女はそれを快諾し、1854年(34歳)に、シスター24名と志願看護師10名と共にクリミア戦争で後方支援地となっていたイスタンブールにある『スクタリ陸軍野戦病院』へ赴きました。
当時のイギリス軍は男社会だったため、ナイチンゲール一行が来ても相手にされず、同じ医療者である軍医からもつまはじきものにされ、看護師として働くことも許されませんでした。
しかし、彼女たちは諦めませんでした。
ナイチンゲールは戦争による負傷兵で溢れている病院内を回り、病室内が汚物で汚れていたり、ゴキブリやネズミなどが動き回っているのを目の当たりにしました。
そして兵の多くが負傷そのものよりも、コレラやチフスといった感染症によって亡くなっていることに気づきました。
そこで、そういた環境を変えようと、ナイチンゲールは仲間と共に病院内を掃除したり、破れた衣服を縫ったりするなど、病院内の衛生環境の改善に努めました。
そういった働きが認められ、病院内での看護も許可されたことで、ナイチンゲールは負傷した兵の包帯を交換したり、食事の提供を手伝ったり、さらには物資なども少ない中でベッド管理を行い、負傷兵個人個人に合った健康管理を実践していきました。
「勇気と高い志を持った女性たちに対する冷遇はやがて、懇親的な働きから感謝の気持ちへと、自己犠牲をいとわない働きぶりは畏敬の念へと変化していった」(1855年、野戦病院の医師)
ONLINEジャーニーより引用
また毎晩ランプをもって病院内を廻り、負傷兵にとって身体的にも精神的にも大きな支えとなっていきました。
そういったことが成果を上げ、死亡率は42%からわずか2%にまで劇的に減少したと報告されています。
また負傷した兵に変わって、母国へと手紙を送ったり、亡くなった兵の家族へと死亡報告と共に義援金を送るなど、一人ひとりに対して心のこもった看護をしていきました。
その後、ナイチンゲールはスクタリ陸軍野戦病院の総看護師長(日本では看護部長)となり、2年間この場所で看護を実践しました。
その間には病院の環境(包帯や衣服の調達から職員の雇用、病院の改築など)を改善するために、英国国防相であるシドニー・ハーバートにも報告を行い、支援を受けたり、ナイチンゲール自身も私財(7000ポンド)を投げ売っています。
7000ポンド=現在の日本円にして約6000万円に相当する。
このような働きぶりを目の当たりにした負傷兵から、ナイチンゲールは『天使』と言われるようになっていました。
また1855年(35歳)には、ナイチンゲールの業績や行動は同行していた新聞記者によっても報道され、「光掲げる貴婦人」「クリミアの天使」「ランプの貴婦人」などとイギリス国内でも言われるようになりました。
『包帯交換』一つを例にとってみても、浸出液で汚れた包帯を手で洗濯しては、乾かし、一人ひとりに毎日交換するということがどれだけ大変なことか想像に難しくありません。
また戦時下の野戦病院と言われても、今の私たちには想像できない部分も多く、決して生易しいものではなかったと思われます。
ここで紹介したことは2年間のナイチンゲールの実践のごくごく一部でしかありません。
その中で自分の身も投げ売って献身的に傷病者を看護し続けたナイチンゲールたちの姿が、わたしにも『天使』のように見えた気がしました。
ナイチンゲールの成人期(後期)
実は、スクタリ陸軍野戦病院で働いている間に、ナイチンゲールはクリミア・コンゴ熱に掛かり、その後は後遺症や今までの過労によって身体が弱ってしまい、現場で働くことも難しくなってしまいました。
そのため、その後は亡くなるまでほぼベッド上での生活でした。
1856年(36歳)にクリミア戦争が終結した後、彼女はロンドンに戻ってきますが、既にイギリスでは彼女はすでに時の人となっていましたが、注目されるのを嫌って、「スミス」という偽名でイギリスに帰国しました。
ナイチンゲールはクリミア戦争での努力と功績が認められ、オスマントルコ皇帝より金貨1000枚(価値は分かり次第追記します)の褒賞金、自国のイギリスからは4.5万ポンド(現在の3億円相当)をもらっています。
また、これを機にナイチンゲール基金を設立し、その寄付金と合わせて、1860年(40歳)にロンドンにある聖トーマス病院の敷地内に『ナイチンゲール看護学校』を設立しました。
また同時期にあの有名な『看護覚え書(Notes On Nursing)』を出版しています。
ナイチンゲールのクリミア戦争での経験が、この『看護覚え書(Notes On Nursing)』一冊には詰まっていると言っても過言ではありません。
そういった思いで、また読み返してみると違った内容も読み取れるのかもしれませんね。
わたしもこれから「もう一度読んでみよう!」と思いました。
ナイチンゲールの老年期
その後、ナイチンゲールは自分を支援してくれた英国の国防相シドニー・ハーバートや叔母であるメイとの死別もあり、『看護覚え書(Notes On Nursing)』を出版してから約10年間という時間を病床に伏して過ごします。
ところが、50歳になった頃、ナイチンゲールは再び筆をとり、執筆活動を再開していきます。
また1872年(52歳)には両親の介護を始めましたが、その2年後には父のウィリアム、8年後には母のフランシス、そして1890年(70歳)には姉のパーセノープも病死しました。
自分自身の身体も思うように動かない中で、身体的な看護は難しかったと思われますが、彼女の思いは両親を始め、姉にも伝わっていたと思われます。
いつからかは明確には不明ですが、ナイチンゲールが看護師になることを反対し、仲違いしていた母や姉も最終的には看護師になった彼女を応援していたようです。
お互いを想い合う家族ですら、というよりも家族だからこそ相手を想う気持ち、心配する気持ちが強すぎて、関係を崩してしまうということも実際によくあることかもしれません。
これは現代でも全く同じことが言えそうですね。
看護師をしていても、患者さんとそのご家族のそういった場面に遭遇することも、過去に何度かありました。
その時は、「大変そうだな‥」と思うばかりでしたが、これからはわたし自身もそういったことに「少しでも、何かしら形で介入ができるといきたい」と改めて思いました。
また、わたし自身のことに置き換えてみても、勉強しない子どもに対して、つい強い口調で勉強を強要してしまうことがあります。
もちろん子どもの将来を心配する気持ちではありますが、その気持ちの伝え方にも注意していかないといけないな‥と少し反省もしました。
素直に心配しているという気持ちを伝えてみるのもいいのかもしれないですね!
話を戻しますが、ナイチンゲール自身はその後も寝たきり生活の中で執筆を続けていました。
ところが、76歳になる頃にはとうとうベッドから離れられなくなり、81歳のときには失明しています。
彼女は生涯独身で夫や子供はいませんでしたが、姉パーセノープの子どもである甥や姪、ナイチンゲール看護学校の学生や卒業生が訪れ、晩年は賑やかな暮らしをしていたと言われています。
そして1910年8月13日に90歳でお亡くなりになりました。
彼女の死は、全世界に報じられ、新聞でも『ナイチンゲールの死は、ヴィクトリア女王の死と並ぶほど大きな損失であり、国葬がふさわしい』と報じられました。
ヴィクトリア女王
イギリスの第6代目の女王(在位:1837年~ 1901年)。
つい最近(2022年9月8日)に逝去されたイギリスのエリザベス2世の高祖母にあたります。
*高祖母とは曾祖父母の母のこと。
大英帝国の最盛期を築き上げた人と言われています。
ナイチンゲールは盛大な葬儀を望まなかったのもあり、葬儀は小規模で行われ、両親の墓の近くに埋葬されています。
ナイチンゲールの言葉
ここでは、わたしが出会って心に残ったナイチンゲールの言葉をいくつか紹介していきたいと思います。
年、月、週ごとに『進歩』を重ねていないかぎり、自分は『退歩』していると思って間違いありません。
Florence nightingale to her Nurses
わたしもそうですが、人は困難なことの先に自分の目的地があったとしても、その道を避けて無意識に楽な道を選択してしまうことがあります。
だからこそ、人は成長していかない限り、楽な道を選んでしまい、以前よりも退化してしまっているのかもしれません。
この言葉からは、ナイチンゲールが看護師に向けて『絶えず成長しなさい』と言っているようにわたしには聞こえました。
少し余談ですが、わたしの大好きな野球選手のイチローさんがこんな言葉を言っています。
壁というのは、できる人にしかやってこない。 超えられる可能性がある人にしかやってこない。 だから、壁がある時はチャンスだと思っている。
by イチロー
偉人の言葉って、やはり真理に通じているからか、言い回しは違えど、どことなく同じことを言っているように感じますね。
わたしも常に新しいことに挑戦し、自分の可能性を広げていきたいと思います。
そして大変な時ほど、自分の成長のチャンスだと思って頑張っていきたいですね。
友が与えることができる以上のものを期待したり、同情を求めてうんざりさせてはいけません。
Florence nightingale to her Nurses
親や兄弟といった家族には、わたしもつい甘えてしまう部分もありますが、いくら友とは言え、他人に何かを要求したりするのは、いつの世でも相手に負担を与えてしまいますね。
家に帰って、「疲れた~!」というのはいいかもしれませんが、「疲れた‥」と沈んだ表情で言われては、家族も心配してしまいます。
こういった相手に与える影響を考えて、人と関わっていくって大切だと思います。
看護師であれば、尚更そういったことに敏感である必要があるかもしれません。
また人に何かを要求するのではなく、逆に自分が人に何かを与えたり、人の要求に応えていくことが看護師には求められるとも言えるかもしれません。
素直であること。
Florence nightingale to her Nurses
それは、強情ではないこと。
自分の頑固な意志を持たないこと。
いつも自分独自のやり方にこだわっていては、
どんな訓練を受けても身につかないのは良識で考えれば分かります。
わたしもそうですが、人って自分のやり方が絶対に正しいと思いがちなところがあるように思います。
でも、実際はそんなことないんですよね。
わたしも看護学校で教員をしていますが、この前、学生と話していて意見の食い違うことがありましたが、絶対に自分が正しいという思いで接している自分に気づきました。
でも、自分の意見は置いといて、いったん学生の考えをじっくり聞いてみると、「そういう考え方もありかもしれないな‥」と思いました。
実はそんなこと、多々あります。
始めから頭ごなしに、教員である『自分の言うことが正しい』だから、学生である『あなたの考えは誤っている』と決めてかかってはいけないですよね。
自分の立場が上でも、どんなに年をとっても、常に誰に対しても素直な心で接していきたいですね。
ナイチンゲールの言葉を聞いて、そんなことを考えました。
おわりに
いかがでしたでしょうか?
わたしの中では、ナイチンゲールは情熱に燃えた強い女性のイメージでした。
わたしもナイチンゲールが90歳という年齢まで長生きしたことは知っていましたが、40歳以降はほぼ寝たきりの状態だったことは全く知りませんでした。
強い女性だったことはその通りだと思いますが、クリミア戦争での経験はナイチンゲールの身も心もズタズタにしてしまったのかもしれません。
またさらに追い打ちをかけるように、愛する家族や友人を亡くし、心の支えをなくしてしまったのも大きな要因だったのだと思われます。
しかし、そこで終わるのではなく、家族のために介護を行い、未来の看護師のために教育や執筆活動を続けた力強い生き方は、若い頃のナイチンゲールの情熱に燃えた女性のイメージを彷彿させました。
あなたのナイチンゲールに対するイメージは変わりましたでしょうか!?
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